国境を飛ぶ鳥


 キブツに入って3週目を迎えると、隼介の生活もすっかり落ち着き、やっとキブツでの生活を楽しく感じられるようになっていた。
 勿論その最大の理由は、海外にいて衣食住の心配を一切せずに済むというこれまでになかった生活面での気楽さがあるのだが、ファニーと親しくなって彼女を意識し始めたことも隼介の気持を明るくしている原因に違いはなかった。
 そして、いまいち纏まりを感じないままの、ボランティア達の小さな社会にも変化があった。
 2回目のシャバット・ディナーの日に、カーンとジェミーという、やはり隼介と同じ旅の途中の、カナダ人の大学生二人が、新しく仲間として加わったのだった。
 新しいボランティアが加わり、12人になったことで、ボランティア・ハウスは、以前よりも少しだけ賑やかになり、部屋割りも少し変わったが、なによりも外国人のボランティアが増えるということは、こんな緊張した場所にいる隼介達余所者には心強いことで、皆が隼介の時と同じように、その夜のシャバット・ディナーの後で、例のごとく二人を歓待した。
 エル・ロームは、辺鄙な場所にあり、これといって楽しみもないような所だが、そんな場所だからこそ、隼介には、これまで特別に意識したこともないような、人との触れあいや新しい出会いが、楽しく貴重なことに思えたのだった。
 そんな生活の変化を気分良く感じながら、3週目の出だしを迎えた隼介は、この週もまた、エティーと組んで仕事をスタートさせることになった
 今度の仕事は、エル・ロームから30分ばかり南に下った、ガリリー湖からはさほど遠くない所にある、セントピーターズ・フィッシュの養殖池と、それに隣接するアボカド畑の管理だった。
 エティーの方は、これまで何度かここを任されていたようで、養鶏場で働いていた時よりも、数段気分良さそうにしていたが、やることなすこと全てが初体験の隼介にとっては、どんな仕事に回されても,所詮は「素人」に変わりはなく、仕事が変われば、いつもプレッシャーを感じるのだが、ただそれでも今回だけは、すっかり仲良くなったエティーが引き続き一緒なので、その点では気遣いをする必要もなく、気楽な気持で新しい仕事をスタートできた。

 隼介とエティーは、この仕事場に、毎日交代で車を運転しながら通った。
 ゴラン高原も、12月に入ってからはすっかり冬の装いで、毎日どんよりとした雲が空を覆って、北風もさらに強くなっていたが、通い始めて3日目の火曜日の帰り道、車を運転していたエティーが、北のヘルモン山を見て、冠雪が多くなっているのに気づいた。
 「シュン。見てごらんよ。ヘルモン山が先週よりも白くなってるよ。これだともうすぐ雪がここいら辺りまで降りてくるんじゃないかな?」
 隼介は、助手席で少しうつらうつらしていたが、「雪がもうすぐ降りてくる」という言葉には、驚いたように「えッ」と声を上げて反応した。
 「ここにも雪が積もるだって?そんな、エティー、冗談言うなよ・・・」
 隼介は、笑いながらエティーを見返したが、「冗談なんかじゃないよ。そうだな、最低でも毎年1,2回は積もるね。去年は、確か・・・、20cm位積もった日があったな。それに、もうそろそろヘルモン山のスキー場もオープンするんじゃないなかな。僕はスキーを楽しみにしてる一人でね。雪が積もることに対しては、大いにウェルカムだよ。・・・あれ?もしかしてシュンは、イスラエルに雪なんてないとでも思ってたのか?」、エティーが怪訝な顔して聞くものだから、隼介は、大袈裟にがっくりと肩を落した。
 「エティー。確かここに来た日に、ポールがそんなことを言っていたけれど、それはヘルモン山の周りだけだと思っていた。こんな赤茶けて石ころだらけの土地に、そんなに雪が積もるなんて半信半疑だったんだ。本当にこんなとこにまで雪は降りてくるのかい?・・・実は俺は、ヨーロッパの厳しい寒さが嫌で、わざわざここまでヨーロッパから逃げて来たんだ。多少でも暖かい場所で時間を潰せて、お金を散財しないで、楽しい経験でもできればと思ってね・・・」
 「へェー、そうなのかい。それはご愁傷さま。でも、2週間後のクリスマスにでも雪が降れば、君達ボランティアは、大喜びじゃないのか?ホワイト・クリスマスって、君らは憧れるんだろ」
 エティーは、そう言って、わざと意地悪げな顔してウインクをしたが、隼介は、渋い顔をしてそっぽを向いてしまった。

 中近東の国といえば、どうしても温暖な乾燥した気候で、雪など無関係というイメージがあり、隼介も実はそう思っていた。
 しかし、実際のイスラエルはそうではなく、この国の自然は、多様な顔を持つという表現の方があっている。
 例えばへルモン山は、標高が2814mあり、真夏の数ヶ月以外は、山頂付近は雪をかぶっているが、真冬には、纏まった雪が降り積もるので、隼介も知らなかったが、この山には、イスラエルで唯一のスキー場がある。
 エル・ロームは、その山から僅か十数キロしか離れていないところにあるのだから、この近辺に雪が降りてきても、何ら不思議はなかった。
 ところがその一方で、500キロ南に下った、世界的に有名な紅海に面したリゾート地のエイラットに目をやれば、真冬でも水温は20度を下回ることもなく、冬場でもじゅうぶん泳げ、サンゴ礁の海には、熱帯魚も泳いでいる。ゴラン高原で雪が降っている時期に、僅か500キロ南には、北米やヨーロッパから寒さを逃れるために、お金持ちのユダヤ人達がどっと訪れているのだ。
 そして、少し目を内陸部に転じて、エイラットから100キロばかり北を見れば、そこには乾燥性気候のネゲヴ砂漠も広がっている。
 イスラエルは、北の端から南の端まで移動しようと思えば、1日足らずで動けるような小さな国で、世界的に有名なエルサレムやエイラットの紹介には、「雪が降る」というような記述は出てこない。
 そのために隼介は、この国で冬場を過ごそうかと考えた時、どこに行っても気候は、内陸にあるエルサレムとそれほど大差はないだろう程度にしか考えていなかった。
 以前タイのバンコクで会ったドイツ人の女の子が、1月に日本に行くというのに、東南アジアと気候があまり変わらないと思い込み、冬服の準備をまったくしていないと聞き、周りのアメリカ人やオーストラリア人と笑ってちゃかしたことがあったが、隼介は、その時のことを思い出して、下調べの足らなかった自分も恥ずかしかった。

 エティーは、隼介が雪の話に相当がっかりしているのを見て、エル・ロームに帰り着くまで、結局何も話しかけなかった。
 隼介の方も、エティーの前で、自分がここに来た都合の良い理由ばかり並べてしまったことで、バツがわるかったのだろう、結局メイン・ビルに帰り着くまで、二人は黙ったままだったが、車を降りる前になって隼介は、エティーに、「実家はどこだ」と訪ねた。
 「俺は、ハイファという街の少し南で生まれてね、今も家族はそこにいるよ。シュンは、ハイファを知ってるかい?」
 ハイファは、隼介がギリシャから船で着いた街で、地中海に面したイスラエルの海の玄関口だった。
 「あァ、知ってるとも。あそこには、雪なんて降る事はないんだろ?・・・だったらエティーには、雪に対する憧れがあっても可笑しくはないわけだ。チャンスがあったら、今度山に連れてけよ。俺の見事なスキーテクニックを伝授しよう。但し、俺の方がエティーよりも上手かったらの話だけどね」
 隼介は、そう言ってエティーにウインクすると、「じゃァまた明日」と言って車を降り、玄関に向かって歩きかけようとしたが、何を思ったか、立ち止まると、もう一度車のドアを開け、「エティー。君は、スノー・ボールで作った人形や、スノー・ハウスを日本で見たか?」と尋ねた。
 エティーは、何の意味かわからないで、ぽかんとした顔で首を横に振った。
 「そうか、エティーも日本にいた時は、雪国の生活までは経験してなかったか。今度雪が降ったら、それも含めて教えられるなァ。雪が降ったらふったで、俺達も何か楽しい遊びでも考えて、せいぜいエンジョイしないと、ここまで来た意味がなくなるからな」
 エティーは、隼介が「人形」や「ハウス」を持ち出してきて言っていることが、まったく何のことかわからない様子だったが、急に明るくなった隼介を見て、車の中から嬉しそうな顔をして見送った。



 雪が降ることはしかたがないにしても、寒い場所に長居をするのは考えものかな?・・・― 隼介は、メイン・ビルに入ると、一人でぶつくさ言いながら、ダイニングに上がる階段を上がっていった。
 今週はポールがキッチンで働いているはずで、見つけて、アイスクリームでもねだって出させようという魂胆だった。
 しかし、階段を上がりきってダイニングに入ると、ポールは、仕事が終わったのかダイニングに出ていて、珍しくキーウィーと同じテーブルに座って、何やら話し込んでいる様子だった。
 「おや、これは珍しいな。キーウィーが二人、顔を突き合わせて話してる。何か変わったことが国の方ででもあったのか?」
 隼介は、ポールと目が合うと、「ニヤッ」と笑い、そう言って二人の間に入って行った
 「あァ、そうだとも。ニュージーランドが世界中で一番良い国と、やっと世界中が認めたようでね。今日を記念日にして、その功績を、二人で称えあってるところだ」
 ポールは、そんな軽口をたたいたが、キーウィーの方は、ニヤつくばかりで、相変らず口を開いてまで喋ろうとはしなかった。
 「そうかい。それはまァ、あり得ないことでもないかな?あんたらの国の人の優しさを知っている俺としては、文句のつけようがない。・・・ただ、こんな所でとぐろを巻いている二人に、とても功績があるとは思えんね。まァ、世界中を歩きながら笑顔を振りまいているから、参加賞くらいの可能性はあるだろうよ。・・・だけどポール。もしあんたら二人があの丘の向こう側から、シリア人を100人ばかり連れてきて、ここでイスラエル人と宴会でも開かせたら、それはきっと敢闘賞に値するよ。それにニュージーランド人は、もっと凄い国民ということを知らしめることになる」
 「おいおい、シュン。その程度で敢闘賞もんだったら、俺は世界中の偉人に申し訳ないな。だって、ノーベル平和賞を取るためのハードルを、俺達がどんどん高くしてることになるもんな。それに・・・」
 ポールは、急に声のトーンを落として、小声で話し始めた。
 「それに、そんな勝手なことをしたら、俺の国は、これから散々虐められるだろうよ。どこかの大国で、物凄い財力や影響力を使ってロビー活動をして、世界を牛耳ってる怖い人達にね」
 ポールがそう言って、不敵な笑いを見せた時、キーウィーが、ポールの目の前のテーブルを指で軽く叩いて、ポールの方を睨みつけた。

 見ると、キッチンの責任者のダニエルが、キッチンから出てきて、隼介達に気づいて手を上げた。
 ポールは、一瞬焦った顔をしたが、すぐに愛想笑いを浮かべ、「ダニエル。一段落ついたのなら、こっちに来て休まないか?」と声をかけた。しかし、ダニエルは、「一度部屋に帰ってくるから」と言って、階段をそのまま下りていった。
 「キーウィー、ダニエルは大丈夫だよ。あんな温厚な人も珍しいくらいだからね。ちょっとくらいお仲間に対する陰口が耳に入っても、決して気にする人じゃない。それよりも、昨日聞いたんだけど、今日アルゼンチンから、何かのグループが来ることになっているんだって。あんた知ってるか?もうそろそろ着くんじゃないか」
 「あァ、アルゼンチンのユダヤ人の御子息が、5、6人来ると言ってたな。17,8歳だと言ってたから、たぶん高校生の研修旅行だろ。・・・但し、こんなとこまでわざわざ来れるくらいだから、どの子もリッチなユダヤ人家庭の坊ちゃん譲ちゃんだろうけどな」
 「えッ、そんな遠くの国からも、わざわざゴラン高原にまで研修に来るの?そりゃ確かに凄いけど、いったい何が良くて、こんな冬場の山の中まで来るんだ?」
 「シュン。言ったろう。ユダヤの御子息だって。世界中にネット・ワークを持つ、アルゼンチンの一流銀行のトップや、大手の会社のトップを親に持つ連中が、親に勧められてやって来るのさ。勿論ここだけじゃなく、イスラエル国内の何箇所かのキブツに分散するんだろうけど、世界中に分散するユダヤ人達は、自分達のバック・アップで築き上げた、イスラエルという作品を子供に見せたいのさ」
 「へェー、なるほどね、そういうことか・・・」と、隼介が納得顔で頷いた時、階下から話し声が聞こえてきて、数人の男女が階段を上がってきた。
 このキブツのリーダー的存在のダヴィッドに先導されて入ってきた連中は、確かに皆若く、男3人、女3人のグループだった。
 「さァ、お出でになったぞ。俺達は退散しようか。二人ともよかったら、俺の部屋にこれから遊びに来るか?貰い物のウイスキーくらいは出せるぞ」
 これまで誘われたことのなかった男が珍しく誘うので、隼介は、この時ばかりに行くことにしたが、ポールは、「朝が早かったから、帰って少し寝る。」と言って、メイン・ビルを出ると別れ、真っ直ぐ部屋に帰っていった。
 
 キーウィーが暮らす部屋は、ボランティア・ハウスの4軒東側にあり、部屋に入ると、まず沢山の観葉植物に隼介は驚かされた。
 それに、髭面で大きな図体に似合わず繊細なところがあるらしく、部屋の中は綺麗に片付けられている上に、掃除も行き届いているようで、そんなところにも、初めて訪れた隼介は感心した。
 「キーウィー。この部屋を見る限り、あんたは、何でも立派にこなせるだけの性格をしているようだね。もっと男臭い部屋かと思ったけど、全然違った。これじゃァここに残って気楽に暮らしていても、何も困らない訳だ。不便を感じることもないんじゃないか?」
 キーウィーは、鼻で笑ってニヤついていたが、それはこの男の照れなのか、明確な返事は、相変らず返ってこなかった。
 「確か、6、7年ここに居るって聞いたけど、どうしてまたこんなところに残ろうって決めたんだ?俺だったら、間違いなくニュージーランドの方をとるね。あんなに人も自然も素晴らしい国は、珍しいよ」
 「さあな。俺もイギリスに行く旅の途中にここに来ちまって、居心地もよかったし、何となく居座ってたら、いつの間にかこんなに時間が経ったっていうとこかな。まァ、俺がここに来た頃は、このキブツが出来て7年目くらいで、メンバーの数も少なくて、勿論ボランティアも僅かだったから、今以上に自分を必要にしていてくれたからな。・・・必要にされるって、悪い気分じゃないだろう。ニュージーランドで、無目的に暮らすよりかはましだ」
 「そうか、キーウィーは、ここで必要にされてたということか・・・。旅を続けていると、意外と孤独だからな。・・・だけど、そのおかげで良い女に巡り合えれば、これはみっけもんだ?」
 「シュン。それってミリーのことを言ってるのか?・・・冗談はよせよ。あれはただの友達だよ」
 「おいおい、それにしてはえらく親密だって聞かされたぞ。それに凄い美人じゃないか」
 「あのなァ、言っておくが、俺は決してこの国に骨を埋めようなんて考えてないし、ユダヤ女と一緒になるなんて、そんな不幸が目に見えてることはしないさ。悪い冗談はよしてくれ」
 キーウィーが珍しく強い口調で、きっぱりとそう言い切るので、隼介は少し失望した。ニュージーランドの男は、そんな人の気持を玩ぶことなどしないと思っていたからだ。

 隼介とキーウィーは、同じ28歳だが、ミリーという子は、隼介達よりも3、4歳若く、キーウィーが「まだ学生だ」と言っていたので、たぶん、ファニーが思い描いている将来の計画のように、兵役義務を終えた後、すこしブランクを置いて大学に進学した、少し頭の固い感じの子じゃないかと、隼介は勝手に想像していた。
 ところが、前の週のシャバット・ディナーの夜に、少し赤味がかったロングヘアーで、ブルー・アイの美形の女性が、真っ赤なカシミアのコートを着て登場して、隼介は、その美しさに度肝を抜かされたが、その子が実はミリーだと知った時には、あまりにも想像を大きく裏切られて、隼介は唖然としたのだった。
 おまけに、あまりにも不釣合いな美女と野獣の取り合わせだと思った隼介は、ミリーを見ては、「とても信じられない」と、周りのボランティアの連中に、何度も繰り返し言っていたくらいだった。
 「キーウィー。あんたは遊びと思っているかもしれないが、ミリーのほうはどうなんだ?もう付き合いは長いんだろ」
 「シュン。お前は日本人だから、ユダヤのことをどれだけ知っているかは知らないが、彼らは、そんな簡単な民族じゃないよ。それにユダヤ女性は、血を繋ぐという意味で特別なんだ。お前はユダヤ人になるための条件を知ってるか?」
 「今は確か・・・、俺みたいな男でも、ユダヤ教に改宗すればなれるって聞いたよ。無宗教派の俺には、物凄く簡単な条件に思えるけどね」
 「あァ、シュンだって、イスラエル人になってこの国に永住することは可能だよ。宗教を受け入れさえすればいいんだからな。だけどな、ユダヤの女性が、改宗して他教徒になることは、非常に難しいんだ。何故ならユダヤ人は、ユダヤ人女性から子供に民族の血を繋ぐということを、非常に重要視している。だから、ユダヤ人の女性から生まれた子供は、父親の宗教には関係なく、生まれたその日から、ユダヤ人とみなされるんだ。・・・だけど、やはり結婚相手が他宗教の男だということは問題でね。実際この国の娘を持った親は、娘が他国の異教徒の男と付き合うことを極端に嫌うんだ。・・・たぶん、娘を持つどこのユダヤ人家庭でも、子供の頃からそんなことは、じゅうぶん娘に話し聞かせていると思うけどな」
 日本の国は、男の種を繋ぐという、男子中心の考え方が強いが、ユダヤ人は、実際に血を分け与える母親中心の考え方が強いことは、隼介も実は知っていた。

 ただ、そのせいだろうか、ユダヤ人の男性が他民族の女性と結婚して子供が生まれても、その子は、親が望まない限り、ユダヤを名乗る必要はないことになっている。
 これは、隼介のカナダ人の女友達の家族の話だが、彼女の父親は、彼女が6歳になった時に「自分がユダヤ人だ」と、初めて家族に打ち明けたらしく、何も知らないで結婚した母親は、そのことに大変なショックを受けて、相当強い口調で父親を罵ったと言い、両親は結局離婚してしまったという。
 こんな話を聞けば、たとえ結婚する相手がユダヤ人の男だとしても、それはそれで問題は生まれているようだし、欧米のアングロサクソン系の白人には、日本人にはわからない、ユダヤ人に対する偏見や差別が根強くあるようで、結局ユダヤ人と結婚するには、相当な勇気が必要ということがわかってくる。
 「俺も子供は嫌いじゃない。将来結婚して、自分の子供を育ててみたいよ。だけどな、そのために自分がユダヤ人になろうとまでは思えんね。何千年の間そうしてきてるかしらないが、そんな馬鹿げた一宗教の仕来りに従う気には絶対なれんよ。それに、ユダヤ人と結婚しても、後からいろんな問題も付いてくるんだ。お互いの家族を含めた問題に、きっとなるからな。・・・まァ、ミリーは凄く頭の良い子だから、そんなことは全部最初からわかってると思う」
 キーウィーは、そこで一度言葉を切って、何か考えていたが、「ただ・・・。そうだな、どうにもならないことって、世の中には沢山あるよな。・・・そう思って、簡単に諦めるのも、実際は辛いよな・・・」と、ぽつりと言った。
 隼介は、「辛い」と洩らしたキーウィーの言葉で、キーウィーの真意を推し量れなくなったが、ミリーの気持は、本人と話したことがないのでわからないので別としても、キーウィーの言ってる理屈は、理解できるものだった。
 「そういえばシュン。お前最近、ファニーとかいう子に、いやに熱心らしいな。もしかして惚れたのか?」
 隼介は、キーウィーの口から、「ファニー」という名前が出て、一瞬返答に困った。実は、キーウィーの話しを聞きながら、隼介は、ユダヤの血のことを思い、そして、ミリーと同じ立場のファニーのことを思っていた。
 「さァ、どうだろうな・・・」
 隼介は、軽く受け流したが、今以上に彼女に深入りしてしまえば、結局最後に俺に残るのは、苦い思い出だけなのか?― そう考えてしまうと、とてもつまらない、やりきれない気持になるのだった。



 隼介は、キーウィーの部屋を訪ねて、「ユダヤの血」の話をしてからというもの、自分の気持が煮え切らなくなってしまい困っていた。
 それまで暇を見つけては訪ねていた、「子供の家」にも足を向けなくなったし、朝晩、たまにファニーを見かけることがあっても、隼介から積極的に声をかけることもしなくなくなっていた。
 そんな状態が2週間近く続いた週末の金曜日、隼介は早く起きて、メイン・ビルに朝食を食べにでかけた。
 いつもだと6時頃から皆出てきて朝食を取るのだが、この日はさすがに休みということもあり、7時過ぎに隼介がダイニングに入った時も、殆んど人の姿は見当たらず、隼介が一人でテーブルに座って食事をしていても、来る人間は、皆声をかけてくれるのだが、殆んどが持参したボールや、ダイニングにある皿に食べ物を載せて、部屋に持ち帰って食べるようで、結局隼介は、一人で朝食を終わらせてしまったのだった。
 それから隼介は、ダイニングにある時計を見たが、まだ7時半を少し回ったばかりで、部屋に帰る気にもなれなかった。
 それでしかたがないので、隼介は、使った皿を片付け終わると、カップにコーヒーを入れ、ヘルモン山がよく見える、北側の東隅の窓辺のテーブルに行き腰を下ろした。
 その日は、朝からよく晴れ渡っていて、エティーと雪の話をした頃よりも、もっと冠雪が増えているのがわかった。
 「このぶんだと、いつここに雪がちらついてもおかしくないんだろうなァ・・・。あーァ、来週はクリスマスか。すぐに正月が来てしまうな・・・」
 隼介は、日本語で小さくそう呟くと、足を前にあるイスの上に投げ出して、頭の後ろで手を組んで天井を見上げた。
 クリスマス・イブは、次の週の月曜日に迫っていて、日本を出て早いもので、これで3回目のクリスマスと正月を、海外で迎えることになる。
 皆、どうしてるんだろう?― 隼介は、日本にいる家族のことを思った。広島にいる両親と妹は健在のはずで、ヨーロッパを離れる前、オランダで受け取った母からの手紙には、「こちらは皆元気だ」以外、自分達のことは何も書かれてなくて、ただただ隼介の心配ばかり書いてあった。学生時代から、好奇心と反骨精神だけは旺盛な隼介だったが、そうなったのも、自分達が子供の頃から自由奔放に育てた結果だと、両親は思っているらしく、隼介が一度入った会社を辞めて、「大きな世界を見て歩く」と、言い出した時にも、これと言って反対はしないどころか、出発の挨拶に行くと、一代で小さいながらも会社を興した父は、「お前の人生なんだから、お前が一番望む生き方をすればいい。出来れば生きてもう一度会えればいいがな」そう言って、別れの杯の真似事までしてくれたのだった。
 もう家族のことを想って、ナイーブになって落ち込むことなどなくなってしまったが、毎年の年末、年始。特に正月は、家族4人でいつも過ごしていたので、欧米の華やいだ雰囲気に欠ける1日だけの正月は、やはり寂しい気持がするのは事実だった。

 「あーら々、何を一人で寂しそうな顔して考えているのかな?どうかしたのかな・・・?」
 誰もいないと思ったダイニングの隅で、そうしてすっかり自分の世界に浸っていた隼介は、不意に後ろから声をかけられて、驚いた顔をして振り返った。
 「さっきから来て見てたんだけど、いやに寂しそうな顔をしてるじゃない。何か悪い知らせでも届いたかな?」
 「なんだ、君か。脅かすなよな・・・」
 隼介は、いつ来たのか、すぐ後ろに笑って立っているファニーと目が合い、一瞬顔が強張った。
 「別に何もないけど、たまにはお袋のことを考えるのもわるくないだろ。・・・これから朝食かい?」
 「いいえ。さっき子供達と向こうで済ませたから、洗い物の皿を持ってきたの。・・・でも、お母さんのことを考えてたなんて、ちょっと素敵だな。長いこと会ってないのよね?」
 隼介は、ぶっきらぼうに「あァ」と答えると、照れたように他所を向いた。
 ファニーは、そんな隼介の横顔を、嬉しそうに暫く見ていたが、「シュンは、食事は済んだの?ここに座ってもいい?」と、言い終わらないうちに、さっさと隼介の向かいのイスに腰を下ろした。
 「俺も朝食はさっき済ませた。休みの日だからね、ボランティアの連中、誰も起きてこなくて・・・。しょうがないからこうして、ヘルモン山を眺めながら考え事をしてたんだ。それにしても、美れいに雪を被っちまったなァ」
 「あら、そうねェ・・・。知ってる?あの山にはスキー場があるんだけど、もうとっくにオープンしてるんだろうな・・・」
 隼介は、エティーからその話は聞いたが、それよりも、この辺りにもまとまった雪が降り積もると聞いて、「バケーション気分で来た俺は、凄く落ち込んだ」という話をして、ファニーを呆れさせた。
 「私の実家のある町は、ちょうどテルアビブとハイファの中間にあるんだけど、雪なんてまったく無縁だから、私も今まで雪のある場所で生活したことがないの。だから私も、実は寒いのは嫌いなの。シュンのその気持、わからないでもないわね。・・・ねェ、そんなことよりも、シュン。これから何も予定がないんでしょ。だったら、ちょっと散歩に出てみない。シュンはまだ、この辺りを歩いたことってないでしょう。私もあの丘の向こうまで行ったことがないから、一度行って見たいと思ってたんだ。少し歩けば、シリアを眺めることができるのよ。どォ、気分転換に行ってみる・・・?」
 隼介は、「二人だけで?」と言いかけたが、その言葉を飲み込んで頷いた。
 「じゃァ、グーリッドにそう言ってくるから待てて。黙って出ると怒られるの」
 ファニーはそう言って、一度「子供の家」に帰っていった。



 エル・ロームのメイン・ビルから幹線道路に出る道は、幹線道路をまたいで、そのままなだらかな東側の丘の先に向かってのびている。
 二人は、休日でまったく車がこない幹線道路を渡ると、のんびりと、なだらかな坂道を上って行った。
 時計は8時を回ったばかりだったが、朝方に比べると、珍しくヘルモン山から吹き降ろす風も弱くなり、「散歩がてらに外を歩き回るにはいい日だ」と、二人は歩きながら話した。
 エル・ロームから、イスラエルとシリアの兵力引き離しラインまでは4、5キロ距離があるが、その中間になる、丘の一番高いところまでは、幹線道路から2キロくらいの距離しかない。
 なだらかな丘をのぼりきったこの辺りには、エル・ロームの手で整備され、始まったばかりのワイン用のビンヤードが、道の両脇に広がっている。
 二人は、道路の両脇から3百メーター以上向こうまで広がるビンヤードに、規則正しく植えられたブドウの木を、感心したような顔で見ながら歩いた。
 殆んどのブドウの木は、まだ植えられて間もないせいか、地上から50センチくらいの高さしかなく、スティーブン達がしているこのビンヤードの主な仕事は、添え木を立てたり、この先大きくなったブドウの木を支えるための、ワイヤーの支柱を立てたりするのが主な仕事らしかったが、ビンヤードの規模を見ると、まだまだ整備にかかる仕事は沢山残っているようだった。
 隼介は、「もう5、6年もすると、この辺りには、物凄いブドウ畑が出現し、イスラエルを代表するワインの産地になるかもしれないね」と、ファニーに話した。アメリカからワイン開発のために呼ばれて来ているアンディーは、ワイン研究や知識では相当なものらしいし、何よりも、「一番重要なワイン用のブドウの栽培に、この土壌は適している」と、アンディーも言うように、ワイン造りのためのいろんな条件が揃っているのは間違いないからだった。
 「シュン。ほら、ずっと向こうにシリア人の村が見えるわよ。ここまで来ると、本当にエル・ロームって、シリアに近いんだって実感するわね」
 隼介は、正面にある太陽の日差しを避けるように、額に手をかざすと、ファニーが指差す方向を見た。
 その地点から、なだらかに東に2キロばかり下っていった先には、国連が設けた兵力引き離しのための金網のフェンスが南北に走っているが、10キロ程向こうのシリア側のフェンスの先に、確かにシリア人の部落が点在しているのがわかった。

 「エル・ロームに来たばかりの頃だけど、ここのキブツは、ヨルダン渓谷のすぐ側で麦を栽培していて、そこに、イツハクという人と仕事に行ったことがあるんだ。ヨルダン渓谷から南には、ヨルダン領が広がってるけれど、シリアは西の方に、少しだけしか見えなかった。あそこからは残念ながら、ヨルダン人やシリア人の姿も村も確認できなかったけど、ここからだと、本当にシリアが実感できるね。ちょっとだけ感動したな・・・」
 日本人の場合、アラブ諸国とイスラエルを、一方通行のみで通過することは容易だが、良からぬ疑いをかけられるという意味で、往復することは非常に難しかった。勿論第三国からのエントリーを試みる場合でも、パスポートに、アラブ諸国のスタンプが押してあるか、あるいはイスラエルのスタンプが押してあれば、それだけで双方の国から敬遠された。そんな理由で自由な往来が不可能な以上、この先隼介には、自分が向こうに立って、こちらを見ることはないと思われた。
 「今この国は、シリアよりもレバノンの方が危険なの。テロリストの拠点は、レバノンに集中してるでしょ。勿論彼らの後ろ盾にシリアがなっていることは、否定できないけれど、少なくても、私達がこんなとこまでのんびり散歩にこれるだけでも、今はシリアとの関係が、丸く収まっていると考えたいわね」
 ファニーがそう言っても、やはりその場所が、100パーセント安全な場所だとは言い切れなかった。実際夜の闇に紛れて、シリアからフェンスを越えて進入するテロリストが、イスラエル兵に見つかり射殺されるという事件は、相変らず起こっているからだった。
 「ねェ、ファニー。あの向こうに放置されてるのは、もしかして戦車じゃないのか?凄いなァ・・・。あそこまで行ってみようか」
 隼介は、二人がいる場所から、北に400メートルほど行ったところに、戦車の残骸らしきものがあるのを見つけて、ファニーに尋ねた。
 「そうねェ、あれはシリア軍の戦車の残骸ね。イスラエル軍とシリア軍のゴラン高原での激しい攻防戦では、双方合わせて何百両って戦車がぶつかりあったわ。勝った方のイスラエルの戦車は、たとえ残骸でも始末されたけど、負けたシリア軍の戦車の残骸は、ここだけじゃなくてゴラン高原のいたるところに、未だに残されてるわ」
 二人は、その先の分かれ道までくると、今まで来た道の北側に広がるビンヤードの、東側の境界に沿っって北にのびる道に入っっていった。そこから先は、舗装もされていない石ころだらけの道で、戦車のある場所よりさらに北側には、側面に小さな覗き穴が何箇所かある、こんもり盛られた土の山があり、もしかしたらあれは、前線によく作られるトーチカかもしれない― と、隼介は思った。
 「ねェ、シュン。シュンは、どうしてこんなに長い間旅を続けているの?どうして旅に出ようと思ったの?」
 「俺が旅に出ようと思った理由だって。そんなことに興味があるのかい?・・・そうだねェ、何て言えばいいんだろう?あの場所に居ることが、哀しくなったせいかな・・・」
 「えッ」ファニーは、驚いたように隼介の顔を見た。

 「君が持っている日本のイメージって、どんなもんだい?文明先進国だとか、ハイテクノロジーがある国だとか、あとは、・・・そうだな、勤勉な国民性ってとこだろうね。違うかい?海外に出ると、必ず皆同じようなことを並べて、褒めてくれるよ。・・・だけどあの国は、そんな良い事ばかりじゃ決してないんだよ。あの国には、君達外国の人には理解できない、おかしな事が沢山あるんだ。・・・そうだな、例えば、日本の社会が他の先進国の社会と最も違うのは、人間同士の繋がり方だろうね。・・・ファニー。俺の言ってることが上手く伝わってるかい?あまり難しいことを英語で話すことがあまりないもんでね」
 ファニーは、「大丈夫よ」と言って、コクリと頷いた。
 「日本という国には、100年ほど昔まで身分制度があってね。悪餓鬼のシャーイがよく、『サムライ』って、俺に言うけど、あれは、その頃、身分の一番高かった人達のことだ。その身分制度は、革命で崩壊して、日本人も人権や平等を手に入れたけど、企業や社会における人間関係は、身分制度という言葉がなくなっただけで、縦の繋がりとして残ってしまっているんだ。それは、今君がいる軍隊と同じようにね。欧米人は横の繋がりを重要視するだろ。だから問題が起こると、いくらでも下から上を突き上げられるし、上の人に聞く耳がちゃんとあるよな。だからディスカッションもできるし、人間にストレスが溜まりにくい。ところが日本の社会では、哀しいかな、我が身を守るためには、下の者は黙って従うしかない。企業内で個人的オリジナリティーを持つなんて、タブーにもなっている。日本にいて、会社で働いていた頃はね、どうしてそうなんだろう。世の中こんなものなのか?― って、毎日のように思ってた。俺はね、上司の顔色ばかり窺う連中は嫌いだったし、上からの理不尽な圧力には、いつも反発してたよ。だからいったいどれくらいストレスが溜まったことか・・・」
 隼介は、近づいてきた戦車の方を見た。何もないなだらかな斜面に、ぽつんとあるその屍は、何故かとても哀れに見えた。
 「俺が子供の頃には、『ウソをつくな。人に迷惑をかけるな』と、学校でも家でも教えられたもんなんだ。ところが社会に出たら、そんなことは、『きれいごと』、と言って、簡単に否定されてしまう。そんな、わからないことだらけの積み重の毎日を送っていたら、こんなものでいいんだろうか?― って、気がしてきてね。俺には、あの場所が自分の居場所に思えなくなってきた。哀しかったよ・・・。旅に出たのは、『目の前の現実だけが全てじゃない。自分の疑問に対する答えは、きっとどこかに必ずある』そう思ったからさ」
 「・・・で、どうだったの。この3年で、何か見つけられた?」
 「あァ、自分の目で実際に確かめることは、何よりも自分に自信を持たせることに繋がるね。まだ俺は、地球を半周して、国も40ばかりしか行ってないけど、驚くことは沢山あった。それに日本で疑問に思っていたことに対する答えが、少しづつ見えてきたかな・・・。残念なことだけど、日本人は、企業戦士だとか言って、企業の色に合わすための教育を受けて同化までして、プライベートな時間を犠牲にすることもいとわず、そこまでして企業に尽くしても、結局は、企業にとって自分が消耗品だということに気づく日が、その内きっと来るだろうね」

 「あーァ、いいな、シュンは。そこまで自由に出来て、好きに生きられて・・・」
 「おいおい、この地球上に人間で生まれた以上、自由なんてあると思うなよ。俺は君よりも、見かけの自由が少し多いだけさ」
 「でも、あなたはこうして一人でここまで来たじゃない。私達のようにいろんな制限があるわけじゃないでしょ?」
 「そりゃあそうだけど、じゃァ、君にとっての自由ってどんなもんだい?」
 「うーん、そうねぇ・・・」
 ファニーは、暫く唇をかんで考え込んでいたが、「自分の意思で、物事が決定できること。どこの国にでも、制限なしで行けること。あとは・・・」
 「ハハハ・・・、そんな完全な望が叶うわけないよ。俺達は現実に応じて、どこかで常に妥協するしかないんだ。それに人類は、他の生物よりも少しだけ利口に生まれてしまったために、言葉もそうだし、ルールもそうだけど、すべて約束事で出来ていて、それから常に制限を受けている。それに反して生きてくなんて不可能なんだから、人間として生きていく限り、完全な自由はないっていうことだ。まァ、あるとしたら、脳ミソを頭から引っ張り出して、馬鹿になるしかないかな?」
 「馬鹿ねェ・・・」
 ファニーがぼそっとそう呟いた時、近くの茂みから一羽の野生のハトが飛び出してきて、東のシリアの空に向かって飛んでいった。
 「あの鳥は、私達よりも自由だっていうことは、間違いないでしょ。国境なんて関係ないもの。いいわね、約束事のない生き物は・・・」
 「あァ、そうだね・・・。だけどあの鳥だって、自由に空は飛べるだろうけど、人間と共存する以上、どこかで妥協を強いられてるよ」
 隼介が冷たく言い放った言葉を聞いて、ファニーは、「シュン。あなたは醒め過ぎてる。・・・あーァ、もっとざっくばらんなとこがあってもいいんじゃないかなァ・・・。遊びがない、ムードもない」そう言うと駆け出して行き、戦車の砲身に飛びついてぶら下がった。

 その戦車は、ソ連製の戦車で、ボディーに目立ったダメージは受けていないようだったが、左右のキャタピラーが完全に切れていた。対戦車用の地雷を踏んでしまったか、あるいはイスラエル軍の攻撃で切れて動けなくなったのだろう― と、隼介は思ったが、未だに砲身だけは、17年前と同じ目標に照準を合わせたままという姿勢で耐えていた。
 「すぐ近くのエル・ロームのビンヤードが出来上がる以前は、戦車同士の激戦地だったこの場所には、きっと何両かの戦車の残骸があったはず」と、ファニーが説明してくれたが、周りを見回す限り、他に戦車の残骸らしきものの姿は見当たらず、この1両の戦車だけが、今はこんな何も無い場所で実際にあった、過去の戦争という事実を物語っていた。
 「それにしても、誰がこんな悪戯書きを残すんだ?」
 隼介は、ボディーに書かれたヘブライ語や英語の悪戯書きを見て、過去誰かがここまでやって来ているということがわかったが、その中の『1974』という年号を表す数字を見た時には、ここで流れたじゅうぶんな平和な時間の経過も感じたのだった。
 それから隼介は、目立った計器類も殆んどなくなった内部を、ハッチのなくなった穴から覗くと、戦車にさっさと見切りをつけ、戦車の南側で風を避けて座っているファニーに声もかけず、150メーターばかりさらに北側にある、土で盛られたイスラエル軍のトーチカに向かって歩き始めた。
 そして、隼介がちょうど半分近く歩いた頃、ファニーはやっと隼介がそのトーチカに向かっていることに気づき、慌てた顔で追いかけて来て、制止した。
 「シュン。もしかしてあなた、あそこに行くつもり?」
 「あァ、そのつもりだけど、ダメかい?」
 「ダメよ。あそこには、入れないはずなの」
 「ウソだろ?だって何の注意書きも出ていないよ。とにかく行ってみるだけならいいだろう」
 隼介は、全く意に介さずという顔で、さっさと歩いていくのだが、ファニーの方は、困惑した顔で隼介の後を追った。
 「ほら、もしここに入ることを制限してるなら、きっと周りにバリアーを張ってるはずだよ。何もしてないんだから、きっと大丈夫だよ」
 シリア側を睨むそのトーチカには、背丈ほどの深さの塹壕が、入り口から南と北に向かって20メーターの長さで掘られていて、隼介は、南側の塹壕に飛び込むと、何の遠慮もなしに入り口に向かって歩いていった。 
 「シュン・・・」、ファニーは、そんな隼介をどうすることもできず、ただ不安そうな顔をして見守るだけだった。

 「へェー、中は意外と広いんだ・・・。痛んでる様子もないし、これだったらいつでも実戦に使えるなァ」
 中に入ってみて、以外に空間が広いことに、まず隼介は驚いたが、長い間使われていないトーチカにしては、内部の土に雑草も生えていないし、コンディション良く保たれているのが不思議なくらいだった。
 隼介は、横幅はほどほどにあるが、高さのそれほどない覗き穴に近づき、その先にあるシリア領を望んだ。
 戦時中は、きっとここに機銃が据えられ、イスラエル兵が、24時間緊張した面持ちで詰めていたことを想像すると、昔テレビで見た、アメリカのコンバットという戦争映画のシーンとダブり、ちょっと不思議な気分に隼介はなっていた。
 だが、隼介がそうして感心しているのもつかの間だった。
 ヘリコプターの爆音が遠くから近づいて来たかと思うと、隼介のいるトーチカの頭上で先回を始めたのだった。
 するとファニーが外から、すぐに出てくるように、大きな声で叫んでいるのがわかった。
 隼介は、何があったかわからず驚いて外に飛び出したが、出てみると、ファニーの側には、軍用ジープに乗ったイスラエル兵が二人いつの間にか来ていて、ファニーに向かって何か尋ねている様子だった。
 隼介にはそれが、ヘブライ語でおこなわれている会話なので、まったく何を話しているのか理解できなかったが、ファニーの緊張した表情から、何かの注意を受けているのは明らかだった。
 「ファニー、どうしたんだ?」
 黙っている訳にもいかず、隼介は、ファニーに声をかけたが、ファニーは、直立不動のまま、何かを必死に説明しているようで、時折イスラエル兵が、隼介の方をちらちらみるので、隼介は、明らかに自分が大きなミスを犯したのだと悟った。
 それから暫くの間、ファニーは、イスラエル兵と話していたが、その内に双方から笑みがこぼれるようになり、5分ほどして、イスラエル兵もヘリコプターも引き上げていった。
 隼介は、憮然としているファニーに声をかけることができなかった。ヘルコプターまで出動させて、軍に迷惑をかけたことに、重い責任を感じていた。
 「シュン、わかったでしょ。ここは普通の場所じゃないの。私達がここに来てうろついていることは、ずっと前から、そこや向こうの丘の、軍の監視所から見られて監視されていたの。・・・言ってたわ。『このトーチカは、今は使われてないけど、いつ起こるかわからない有事の際に、いつでも使われるようにしてある』ってね。だからバリアーがないんだって。・・・でも、あなたが日本人だと言ったら笑ってたわ。『平和な国じゃ、こんなものまで珍しいんだろう』って」
 隼介は、ファニーの忠告も聞かず、彼女に大きな迷惑をかけたことが心苦しかった。それは、彼女自身が兵役中の立場だから、尚更だった。
  

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